iPhone4にテレビ電話は成功するか?

厚さ9.3ミリ、高精細ディスプレイ搭載の「iPhone 4」発表 - ITmedia Mobile


iPhone4が発表された。
ディスプレイが高解像度できれいになったり、マルチタスクに対応したり、薄くなったりと、先代iPhon3GSよりさらに魅力が増したように思う。欲しくなったっていうひとも多いんじゃないかな。

が、ひとつだけ変なのが…、いまさらテレビ電話機能(FaceTime)が搭載されていること。

日本のケータイにはテレビ電話機能なんてずいぶん前から搭載されてる。そして、だれもその機能を使ってない。
なんでappleはいまさらそんな機能を、最先端のデバイスに搭載してきたのだろうか。

日本のケータイにテレビ電話機能がついてるのはなぜか

これはたぶん日本のメーカーが「まず技術ありき」でものを作ってるからじゃないかと思う。
「無線で動画をリアルタイムに通信する技術」がまずあって、それをケータイに乗せることが目的になってた。で、あとからその技術の使い道として「テレビ電話機能」を考えたのではないか。だから、その機能を何に使えば便利なのかよく分からないのですよ。「テレビ電話ができるよ」「ふーん、すごいね。それで?」ってなっておしまい。
ユーザーの方を向いてない、というか、商品のコンセプトがよく分からない。テレビ電話機能でユーザーに何の価値を提供したいのかがいまいち見えてこない。でも技術を乗せることが目的だから、コンセプトとかあまり気にしない。


こういう例は他にもある。

たとえば解像度だけ高いケータイのディスプレイ。「高解像度のケータイ用液晶ディスプレイ」という技術がまずあって、とりあえずそれをケータイに乗っけた。でも、使い道がいまいち見えてないしコンセプトも不明確。だから、解像度高いディスプレイなのにフォントがそれに追いついてなくて、やたらでかい文字で表示したり、カクカクした汚いフォントのままだったりする。
コンセプトが不明確だから、全体としてみたときにどうもちぐはぐで、バランス悪いことこの上ない。


こんな感じで「何がしたいかよく分からない」みたいな商品がときどき出てくる。いろんな技術が統一感も無いままにいっぱい搭載されて、「ガラパゴスケータイ」みたいなこと言われちゃう。
まあ、日本メーカーの製品全部がそうだってわけじゃないけども。

appleだったら

appleのやり方はたぶん、こういう日本のメーカーのやり方とまったく違う。こちらはまず明確なコンセプトがあって、それを実現させるために機能を搭載してきてる。
たとえばiPhoneは「直感的でストレスの無いユーザーインターフェース」をコンセプトにしてる、と思う。
で、それを実現させるために指2本使えるタッチパネルとか、高解像度のディスプレイ+きれいなフォントとか、滑らかに動くスクロールとか、高速なCPUとか、そういう技術を搭載してる。
だから、全体としてみたときに機能にまとまりがあるというか、一つの目的のために作り上げられてる感じがする。そのへんがiPhoneの魅力につながってるように思う。


と、考えた時に、iPhoneにテレビ電話ってなんでだろう?と思うのですよ。
どういうコンセプトなのか?どんなユーザー価値を提供してくれるのか?
正直いまいち分からないけれど、appleのことだから何か考えがあるのかもしれないなーという期待感はある。日本メーカーはテレビ電話で失敗したけれど、appleは何かやらかしてくれるかもしれない。


続き:iPhone4のテレビ電話のコンセプト? - あんだあどらいぶ



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4ティージョブズの考えがよく分かる
4 経営の参考にはならないかもしれないけど

電子書籍なんてほんとに必要か?

電子書籍が何の役に立つのか? - あんだあどらいぶ
電子書籍で誰が幸せになれるのか? - あんだあどらいぶ


前回電子書籍に向いているのは、文章の中身だけでなくレイアウトや装飾も含めたコンテンツを楽しむことを目的にしている人たちと考えた。これはつまり、電子書籍の市場は紙メディア市場の一部を奪い取るだけということ。書籍市場全体で考えると、一部が紙メディアから電子書籍に置き換わるだけなので、市場自体は増えてない。ということは、電子書籍って端末メーカーや配信業者にはいいチャンスかもしれないけど、書籍業界全体でみるとそんなに美味しくないね、という感じがする。
出版社にしてみれば紙から電子化しないといけないけど、そのコストを払って電子化したら利益が増えるかっていうとそういうわけじゃなさそうだし。本屋さんは単純にお客を奪われるだけだし。書籍の著者も市場が大きくなって本を買ってくれる人が増えないなら利益は増えないわけだし。
さらに、書籍を捨ててwebメディアへ移行してしまう人もいるだろうから、書籍市場全体は縮小傾向。こう考えると、電子書籍ってそんなに美味しい市場じゃなさそうな気がしてくる。


じゃあどうするといいのか。ここは電子書籍とかまどろっこしい事言ってないで、さっさと全部webメディア化してしまえばいいのではなかろうか。

電子書籍とwebメディア

電子書籍に期待されてることってよく考えるとwebメディアでも実現可能だ。だから情報を得るのが目的の層は、紙メディアからwebメディアに移行するのはそんなに難しくない。コンテンツを楽しむのが目的の層も、webメディアで十分対応できるような気がする。レイアウトや装飾が大事なら、表示する時にそれらを再現してあげればいいだけだし。
web上だからって課金も別に難しいことではないだろうし。

webメディアだったらこんなことも

書籍がwebメディアとしてweb上に存在してれば、googleとかで簡単に検索できるようになる。こちらのブログで指摘されているような、どこにいけば読みたい本が売ってるのか?とかで悩む必要もなくなる。
また、こちらのブログにあるように、章ごと小分けしてばらばらに提供するにしても、googleで検索可能なら読みたいところをすぐに見つけることができて便利だろう。販売も課金の仕組みをどうするかだけの問題なので、実現可能だと思う。課金せずフリーにするモデルならもっとラク
それから、web上にあればダウンロードしてローカルで管理する必要も無いから、端末の記憶容量を気にしなくていいし、家からでも外出先からでも、どの端末からでも自由にアクセスできる。
さらに、書籍ごととか、その書籍の章ごとにURLを付けることができれば、web上で共有したりリンク貼ったりも簡単になる。そうするとこちらのブログにあるような、本を読んだ人同士がつながる仕組みもわりと簡単に実現できるようになるだろう。

書籍市場全体を広げよう

このように、webメディアなら電子書籍よりもさらにメリットが多い。これだけメリットがあれば、紙書籍市場を置き換えるだけでなくて、市場を広げることもできるんじゃなかろうか。書籍もweb上のコンテンツの一つ、となれば、それを利用した新しいサービスとかも生まれてくるだろうし。例えば、はてブの書籍版みたいなのとかね。そのサービスに惹かれて、いままで本を読んでなかったけど読んでみようかなと思う人たちも出てくるかもしれない。
webメディアへ移行するコストはかかったとしても、書籍を読むという人が増えて市場が大きくなる可能性が生まれる。書籍を出版する側も、市場が大きくなるなら単にコストを払うだけじゃなくて、それをちゃんと回収できるようにもなると思う。端末メーカー、配信業者、出版社、著者、ユーザー、みんなにメリットが出てくるんじゃないかな。

困るのは本屋さんくらいだけど、ここは紙の本の良さを大事にする層を相手にビジネスを続けていくしかないかな。規模は小さくなってしまうかもしれないけど、完全に消えてなくなってしまうことはない。本屋という形態のメリットを生かして、紙メディアがいいという人たち向けに最適化していけばいい。例えば、店内にいすを置いて楽に立ち読みできるようにするとか。陳列スペースを工夫してwebメディアには出せない独自性を出すとか。

まとめ

電子書籍が騒がれているけども、よく考えると結構中途半端な存在のような気がしてきた。紙の本をそのまま電子化してダウンロード販売って、なんかいまいちな気がする。進歩してはいるけど目指すべきなのはもっと先だろう、という感じだ。なので、今言われている電子書籍は過渡的なもので、将来はだんだんwebメディアに移行していくのではないかなあ、と思ったりする。

電子書籍で誰が幸せになれるのか?

前回電子書籍に期待されてることについて考えてみた。こんどは、そもそも人は何のために本を読むんだろう?という視点から、電子書籍は誰の役に立つのか、どんな市場なのか、を考えてみる。

そこで、本を読む目的は3つのレベルに分けられると仮定して考えてみた。
ひとつめは、情報を得るため。
ふたつめは、コンテンツを楽しむため。
みっつめは、本を読むという体験を楽しむため。

情報を得るために本を読む人

本に書かれている「情報」がすべて、というレベル。
単純に書かれている情報が欲しいのであって、それ以外のことはあまり重要でない。たとえば新聞とか、情報誌はこのレベル。基本的に、1回読んで必要な情報をゲットしてしまえばもう用済みになってしまうものがここのレベルに入ってる。
このレベルの人は情報を得ることが目的なのでそもそも紙の本である必要はなくて、もっと便利に情報を得られるものがあればそっちを選ぶはず。

コンテンツを楽しむために本を読む人

本に書いてある情報を得るだけでなくて、その「内容を楽しむこと」を目的にしているレベル。
「内容」は単に書いてあることの内容だけでなくて、そのレイアウトとか配色とかデザイン的なものも含むものとする。たとえば小説とか絵本とか漫画とか写真集とか、そういうものはここのレベル。
楽しむのが目的なので、気に入れば何度も読み返したりもする。
このレベルの人もコンテンツを楽しめれば紙の本である必要はなくて、電子書籍がコンテンツの楽しさを損なわず、かつ紙より便利と思えばそっちに移行できるはず。

体験を楽しむために本を読む人

本の内容だけでなくて、「本を読む」という行為そのものを楽しむレベル。
本としてのジャンルはあまり関係なくて、その人の好きなものを読む。内容がどうでもいいのではなくて、内容を楽しみつつ、紙の本を読む行為自体を楽しんでいる。「紙の手触りがいいんだ」とか、「ページをめくる感触が好きなんだ」という人はここのレベル。
そんな人いるのか?と思うかもしれないけど、適当にページをパラパラめくって雑誌を眺めたり、なんて行為はみんなやってるはずで、その延長上なんだと思えば全然いないってことはないと思う。「ディスプレイで文字を読むと疲れる」という人も、消極的理由ではあるけどこのレベルに入るかな。
紙の本を読むという「行為」が楽しみになっているので、紙の本から離れることはきっとない。

電子書籍に向いてるのは?

本を読む人を3つのレベルに分けてみたので、それぞれのレベルの人が電子書籍に向いてるかどうか考えてみよう。
1つめのレベルの人はそこそこ電子書籍向きではある。けど、情報を得るためには電子書籍である必要はべつにないので、もっと便利なメディアがあればそっちへ行ってしまうのでは。たとえばニュースを読むのにわざわざ電子化された新聞を読まなくても、ニュースサイトを見に行けば済むとかそういうこと。そっちの方が安いんだから、電子書籍をお金払って買うこともないし。レイアウトとかも気にしないので、電子書籍端末のちょっと大きめの画面も必要なくて、ケータイの小さめの画面でも別に問題ないし、タッチパッドでスムーズに拡大したり縮小したりの機能もなくても構わないのでは。

2つめのレベルの人はかなり電子書籍に向いてる。レイアウトなんかもそのまま固定された状態で読めれば、紙の本と変わらないコンテンツになるから、漫画みたいなものでも違和感なく読める。あと、気に入った本をいくらたくさん集めてもかさばらないという便利さもある。お金を払ってでも電子書籍を買いたい人はけっこう多いと思う。電子書籍が役に立つのはこのレベルの人だろうね。

3つめのレベルの人はあんまり電子書籍に向いてない。紙の本でないと楽しくないのだから、そもそも電子書籍じゃだめ。

電子書籍でみんなハッピー?

こうして考えてみると、電子書籍って紙の本の市場をそのまま置き換えられるものじゃなさそう、ということが言えると思う。
1つめのレベルの人は電子書籍である必要がない。そもそも既に本とか新聞の類を買わなくなっているかもしれない。新聞読まない人が増えてたりとか、雑誌の売り上げが落ちてたりとかの現象にも表れてると思う。だからここは電子書籍のコンテンツ、端末ともに大きな市場になりにくいんじゃなかろうか。
3つめのレベルの人は電子書籍に興味ないはずなのでここも市場にならない。
だから、電子書籍の市場は本全体の市場のうち、2つめのレベルの部分だけ、ということになるかな。

逆に紙の本の立場から見ると、3つめのレベルの人がいる限り紙の本が世の中から消えてなくなることはきっとない。けれど、1つめのレベルの人が本そのものから離れ、2つめのレベルの人が電子書籍に移行してしまえば、確実に市場は小さくなるわけで。3つめのレベルの人にしても、長期的に見れば紙の本の良さを知ってる世代がだんだん減っていくわけだから、紙の本の市場はこれからかなり厳しくなるんだろうな、という感じ。

まとめ

ここまで考えて、電子書籍化したからって本の市場が増えるわけじゃなさそうだってことが分かった。そもそも本を買ってない人たちが、電子化したからって買うようになるわけじゃ無いだろうし。徐々に縮小していく本の市場で、残った部分を電子書籍が侵食していくっていう構図かな。
あんまり「電子書籍でみんな幸せ」って感じではないよね。幸せなのは2つめのレベルのユーザーだけ、かも。売る側はそんなに幸せじゃないのかも。


次は、前回考えた電子書籍に期待されてることと、今回の内容を組み合わせて、電子書籍について考えてみる。

つづく




電子書籍元年 iPad&キンドルで本と出版業界は激変するか?
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電子書籍が何の役に立つのか?

iPadが発売されたりもあって、最近なにかと話題の電子書籍。紙の本が電子化されて手軽になって便利だろうなーと、なんとなく思っていた。が、ふとこちらのブログを見て、確かに電子書籍って便利な面もあるけど、まだまだ課題も多いよなーということに気付かされた。あれ、実は電子書籍ってあんまり便利じゃない?もしかして誰かに踊らされてるだけ?って感じで。
というわけで、電子書籍に期待されてることってなんだっけ?というのを改めて冷静に考えてみた。ここでは電子書籍をちょっと広めにとらえて、本が電子化されたものだけでなくて、新聞とかの電子版も含めることにしてみる。

かさばらない

一番大きいのはこれ。
本を何冊持ってようが電子書籍端末の重さ、大きさより増えることはない。紙の本は量が増えると重いしかさばるから持ち歩けなくなるし、家の本棚もどんどん埋まっていく。本の重さで家がつぶれそう、なんて話も聞くし。
量が増えてもコンパクト。これが電子書籍のいちばんのメリットでしょう。

いつでもどこでも買える

紙の本は基本的に本屋さんへ行かないと手に入らない。amazonとかもあるけど、届くまでに時間がかかる。電子書籍なら、端末がネットワークにつながりさえすればいつでもすぐに手に入る。

安くなる

紙の本は、ユーザーの手に届くまでにいろいろなコストがかかっている。まず紙を作って、そこに印刷して、それを製本、装丁して、トラックで本屋さんまで運んで、本屋の店頭に並べて、本屋の店員さんがレジ打って、てな感じで。
電子書籍だったら、これらのコストがかからなくなる。
かわりに電子書籍を売るサーバーの管理費とかかかるのかもしれないけど、そのへんはappleとかamazonがまとめてやってくれるんだろうから、たいしたことないだろうし。コストが下がった分、本が安くなるか、出版社や著者の利益が増えるか。どっちにしてもいいことだよね。コストカットされる方の人たちは大変だろうけど…。

電子化ならではの+α

紙の本にはできない、電子化されてるならではの機能。検索ができるとか、挿絵のかわりに動画が付けられるとか。そんな付加機能があったら紙の本より便利になると感じる人もいるだろう。



電子書籍の紙の本に対するメリットってこんなものかな。デメリットとどっちが大きいか、と考えると、まあ人それぞれだろうね。端末一つで何冊でも持てるのがいい人もいれば、そんなたくさん持ち歩かないから多少かさばってもいい人もいるし。ネットで安く簡単に手に入るのがいいって言う人もいれば、多少高くても本屋さんでいろいろ眺めて買うのがいいんだって言う人もいるだろうし。デメリットのうち、技術的な問題はいずれ解消されるかもしれないから、そうなったときはまた変わってくるだろうけど。

ただ、ここで挙げたようなメリットが求められているとすると、少なくとも電子書籍端末は軽くて薄くて紙の本より扱いやすいとか、ネットにつながるとかができないと意味が無いんだろうし、電子書籍の配信側には紙の本より安くすることが求められるんだろう、ということは言えるかな。


うん、ありきたりな結論だ(笑)。
次、そもそもなんで本を読むのか?という点からもうちょっと深く考えてみよう。

つづく




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3D映像の課題3 表現上の課題

前回前々回で、3D映像の課題としてその原理的なものと、視差の調整に関わるものについて考えてみた。今回は3D映像の表現上の課題について考えてみる。


映画「アバター」の評判とか課題をネットで調べていたら、次のような意見を見かけた。

どちらも3D映像の違和感に関するものだが、これらは映画の表現の都合上発生している現象だと思う。

3D映像とフィルムジャダー

まずフィルムジャダーとは何かについて。そもそも映画というのは1秒間に24コマの静止画を連続して表示することで動画として見せている。一方、あたりまえだけど自然の風景はコマになっているわけではなく連続した映像になっている。コマ数が無限大だともいえる。となると当然、自然の風景に比べて映画の方はコマ数が少ないため、物の動きが若干ギクシャクしているように見える。これがフィルムジャダー。何気なく見ているとなにも感じないかもしれないが、左右にスクロールしていく映像などをよく見ると分かったりする。ギクシャクするとは感じなくても、なんとなく動きに違和感があるように感じることもある。

余談だけど、テレビの映像は毎秒60コマなので、映画よりもギクシャク感は少ない。でも映画をテレビで見ると、もともと24コマしかないものを、同じコマをコピーしたりして60コマに増やしてあるだけなので、やっぱりギクシャク感を感じる。あと最近はテレビドラマなどでも映画のフィルムっぽさを出すためにあえて24コマで撮影したりしているものもあるようだ。普段テレビを見ていて、バラエティ番組などと比べて、映画やドラマはなんとなく動きが普通と違うな、という感じに気付いている方もいるかと思う。

で、3Dでない、ふつうの2Dの映画では、このギクシャクが問題だといわれたりもするが、逆にこれこそが映画の画質なんだ、としてありがたがられることもある。つまりフィルムジャダーは映像表現の一環と考えることもできる。なので、フィルムジャダー自体は賛否両論あるけれど、絶対ダメというほどの問題ではないと思う。2Dの場合は。

では、このフィルムジャダーが3Dになるとどうなるか。たぶん単に3D映像の動きがギクシャクするだけだろう。が、これがことのほか違和感につながる場合があるようだ。それが、先の記事で言われているようなこと。せっかく3Dにして臨場感を増しているのに、動きが普通と違うとそこの違和感が強調されるのではないか、というもの。たしかに考えてみれば、3Dになることで実際の風景に近づいたのに、動きが実際の風景にはありえない24コマだとなると、2Dで見てるよりかえって違和感が増すということはあるのかもしれない。

けれども、この違和感も含めて映画なのだという考えも分からなくはないし、3Dでもそれは同じなんじゃなかろうか。2Dの場合は映像が24コマであることで独特の雰囲気がある映像になる。3Dでも同じ効果はたぶん得られるんじゃないか。それをいいと思うかどうかは好みの問題だろう。(もしかして3D+24コマだとなにか立体映像として欠陥があるのかもしれないが、映画を見ただけではそこまでは分からなかったので、そこはよく分からない。)

というわけで、フィルムジャダーの問題はある意味表現上の課題といえる。24コマの動きが嫌なら60コマで撮影してそのまま上映すれば解決する。技術的には特に難しい点はないだろう。テレビでは60コマの3D映像はすでにできていることだし。どちらを選ぶかは制作側の考え方次第なんじゃなかろうか。

3D映像とカメラフォーカス

次に、カメラのフォーカスと鑑賞者のフォーカスがあっていないという問題。これもたぶん3D映像における表現上の問題といえる。
2Dの場合は、カメラのピントが合っている場所を調節することで立体感を演出したりする。また、主に見せたい被写体以外のピントをわざと外して、被写体を印象的に見せる演出も行われたりする。3Dの場合でも同様に、カメラのフォーカスを調整して見せたい被写体を引き立たせるような演出ができると思う。ところが3Dの場合、これが逆に問題になることがある。

人が自然の風景を見る場合、その風景の中のどこでも好きなところを自由に見ることができる。見たいところに目のフォーカスが合うので、どこでも好きなところをくっきりと見ることができる。が、3D映像の場合、カメラのピントがあっているところと合っていないところがあり、当然ピントの合っていないところはどんなに頑張って目のフォーカスを調整してもくっきり見ることができない。3D映像はカメラのピントがあってないのか、自分の目の調節ができていないだけかがすぐには判別できないように思うので、見えると思って頑張っても結局見れないということがある。このことがストレスに感じたり、違和感になったりして、見る人に負担をかけることになる。

これを防ぎたければ、カメラで撮影するときにパンフォーカスで撮影して、画面全体でピントがあっている状態にすればいいはず。そうすれば見る側が見たいところを自由に見ることができるので、先の問題は解決する。

が、3D映像でピントの合う位置を絞っているのは、3Dの立体感への違和感を軽減する狙いもあったりする。これは「ピントの合っているところ以外は見ないで欲しい」ということ。前回のエントリでも触れたが、立体感に違和感をもたらさないためには左右の目の見え方のずれ=視差の調整が重要だ。けれども、画面全体の立体感を適切にできるような視差の調整はきっととても難しい。視差の調整にも限界があるからだ。視差がちゃんと調整できたところを見ていれば問題ないが、できてないところを見てしまうと違和感を与えることになる。だから、視差を最適に調整できているところにだけピントを合わせて、見る人がそこに目線を合わせて映像を見てくれるように誘導している。

結局、画面全体にピントを合わせて見る人がどこでも自由に見れるようにするのか、見せたいところだけにピントを合わせて立体感を自然に見せるのかは、映像制作側の判断次第だろう。どういう表現をしたいのかによって決まる問題だと思う。

まとめ

3D映像のフレームレートとフォーカスについてどういう課題があるかを考えてみた。これらの課題は、映像の制作者がどういう表現をしたいのかによって、どういう対策を採るかが決まってくるはず。
3D映像の表現にはこういう問題があるということを意識していると、見ている側も制作者の意図をよりはっきりと理解できるかもしれない。




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3D映像の課題2 立体感における違和感

前回のエントリで、3D映像の課題として、両眼視差を利用した立体映像の原理的な課題について考えてみた。今回は別の視点から、3D映像の立体感における違和感について考えてみる。

3D映像に感じる違和感

3D映像を見ていると、立体感は確かにあるのだがなにかおかしい、という感じることがある。たとえば、映像に映っている人間が小人に見えるとか、異なる距離にいる人物がそれぞれ平面に描かれた「書き割り」が並んでいるみたいに見えたり、といったことが起こる場合がある。こういう現象はそれぞれ、「箱庭効果」、「書き割り効果」と呼ばれている。

箱庭効果と書き割り効果の原因

これらの効果は、単眼での奥行き情報と両眼での奥行き情報の間の矛盾が原因で生じる、と考えられている。

ふつう、カメラで物体を撮影した時、レンズの画角によって遠近感が表現される。近くのものは大きく写るし、遠くのものは小さく写る。なので、3D映像でなくても映っている物体がどの程度の距離にあるのかはなんとなく分かる。
一方、両眼視差を用いた3D映像の場合、2つのカメラで物体を撮影した時の見え方のずれである視差によって、遠近感が表現される。近くにあるものほど視差が大きくなり、手前に飛び出して見えるようになる。

この、カメラの画角で表現される遠近感=単眼での奥行き情報と、視差で表現される遠近感=両眼での奥行き情報とが一致していないと、立体感に違和感を感じることになる。

具体的には、視差によって得られる奥行き感と比べて、映っている物体の見かけの大きさが小さいと、人が小人に見えるような箱庭効果になるのではなかろうか。また、単眼での遠近感に比べて、視差による遠近感の方が小さくなると、奥の物体と手前の物体との距離が詰まって見えてしまい、物体の厚みが感じられなくなる書き割り効果になるのでは、と考えられる。

まとめると、箱庭効果も書き割り効果も、カメラレンズの画角で得られる奥行き感に対して、視差が正しく再現されていないことが原因で起こっているといえる。

どうしてそうなってしまうのか

では、正しい視差を再現できれば箱庭効果や書き割り効果が解消されて、より自然な立体感が得られるのか、というとその通りのはずだけど、これを実現するのは結構難しいと思われる。

まず、カメラで撮影した時に得られる視差と、それを実際にスクリーンやテレビ画面に表示した時の視差はたいてい一致しない。表示した時の視差は画面の大きさによって変わってしまうからだ。映画館のスクリーンの方が、家庭用のテレビよりもはるかに大画面なので、当然視差が大きくなる。また、スクリーンや画面までの視聴距離によっても視差が変わってしまうだろう。

そこで、3D映像の制作においては視差の調整が行われる。実際に視聴される画面の大きさを想定して、最適な立体感が得られるように視差を調節するのである。とはいえ、CG作品なら2台のカメラの間隔や向きを変えて何度でもレンダリングできるので視差の調整は比較的簡単だが、実写作品だとそうも行かない。何度でも取り直しするというわけには行かないし、また、実際に視聴する画面に表示して視差や立体感を確認するのも撮影現場では不可能だろう。だからどうしても視差の調整が完全にはできず、書き割り効果のような現象が発生してしまうと思われる。

実際、映画「アバター」では、箱庭効果は感じなかったが、書き割り効果は特に実写パートで感じられた。CGパートでは感じられなかったので、CGパートの視差は十分に調整されているのだろう。

まとめ

3D映像といっても、ただ単に2つ並べたカメラで撮影したものを表示しておけばいいというものではない。適切な立体感を得るためには、視差の調整をしっかりと行わなければならないのだろう。きっとこの辺りが3D映像の出来の良し悪しにつながっているんだろう。

3D映像の課題

3D映画「アバター」がヒットしたり、家庭用の3Dテレビが発売されたりと、3Dが一気に広がりはじめている。アバターのヒットの理由を以前考えてみたが、やはり3Dであることが重要な要素であり、それだけ3Dは注目されている。
3D映像の技術自体は昔からあるものだけれど、最近の3Dは昔からあるものと違い、高精細でくっきりとした画像で、いままで以上に臨場感のある立体映像を楽しむことができる。これだけで十分魅力的ではあるのだが、一方で現在の3D映像には性能的な限界みたいなものが感じられたりもする。
このへんについて思うところを書いてみる。

3Dの仕組み

まず簡単に3D映像の仕組みを説明。
人間が物を立体的に見るのには、左右の目それぞれで見た映像の微妙な位置のずれを利用している。右目と左目で物の見える位置は微妙にずれている(両眼視差って言います)が、このずれの量によって距離間というか奥行きを感じている。3D映像はこの人間の性質を利用している。見る人の右目と左目にそれぞれ微妙に位置がずれた映像を見せることで、映像を立体的に感じさせているわけだ。

両眼視差による立体映像の問題点

ところがこれにはひとつ問題な点がある。
実は、自然の風景を見ているのと3D映像を見ているのとでは、目の使い方がまったく違っているのである。
3D映像をみているとき、映像自体はテレビ画面やスクリーンに映し出されているので、目の焦点はいつも画面やスクリーンに合っている状態になる。
一方、右目、左目で見え方にずれがあるため、それぞれの目玉はそのずれにあわせて見る角度を変えようとする(輻輳角って言います。近くの物を見ようとして寄り目になったりする、あの角度のこと)。
つまり、目の焦点調節と、目玉の方向の調節とが矛盾した状態になる。焦点は画面やスクリーンの距離にあわせないといけないのに、目玉の向きはもっと近くを見ようとしているような不自然な状態になってしまう。

これによっていろいろ不都合が起こるはず。
たとえば、前後の視点移動がスムーズにいかない、ということが起こりうる。手前に飛び出たものを見ていた状態から、奥にあるものに視点を移そうとしたときに、ちゃんと立体的に見えるまでにほんの少し時間がかかるようなことがあるだろう。実際の風景を見ている場合には、両目の輻輳角と焦点の調節とをうまく連動させることができるので、前後の視点移動でもスムーズにできる。けど立体映像の場合は、目の焦点は同じ距離に維持したまま輻輳角だけ調節することが必要なわけで、これをうまく連動させるにはきっと慣れが必要だ。だからスムーズな前後の視点移動ができない、という現象が起こるのではなかろうか。

3D映像を実際に見て感じたこと

実際、映画「アバター」を見ているときにこういう現象を感じたシーンが何度かあった。たとえば、森の中でトラみたいなやつに追いかけられるシーン。トラみたいなのと主人公がそれぞれ奥と手前に配置されて激しく動くシーンだ。こういうシーンはトラと主人公を交互に見ようとするものだと思うが、これがなかなかうまくできなかった。その結果どうにも立体感が得られないだけでなく、何がなんだか分からないシーンだと感じてしまった。
他には、シーンが切り替わった瞬間にも同じようなことがあった。シーンが変わったときに、見るべき対象物がどこにあるのか、というか、どの距離にその物体があるのかが把握できるまでに少し時間がかかった。これもたぶん、焦点を変えないで輻輳角の調整だけで対象物の距離を把握しなければならないのが原因じゃないかと思う。


まとめ

こんな感じで、現在の両眼視差を利用した立体映像は、通常とは違う不自然な目の使い方になるため、不都合が生じることもあるだろう。これは両眼視差を利用して立体感を得るという仕組み上、どうしても回避することのできない問題だと思う。
ただ、これもある程度時間がたてばだんだん慣れてくるものだと思う。実際、映画「アバター」を見ているときでも、映画の後半ではあまりこういう現象は感じなかった。映画を見てるうちに目が慣れてきたのかもしれない。

もしこの課題を解決できたら、実際の風景を見ているのと変わらない感覚で立体映像が楽しめるようになるだろう。が、たぶんそれにはもう少し時間がかかると思う。輻輳角だけでなく焦点調節まで正しく再現しないといけないので、まだまだ技術的に厳しいと思う。研究しているところはあるけど、商品レベルで実現するのはまだまだ先だろう。




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