知識の蓄積を疎かにするとあとで痛い目見るよ
http://d.hatena.ne.jp/keitaro2272/20091213/1260653984
気持ちはとってもよくわかる記事を見かけた。その記事で言われていることをまとめるとこんな感じ。
- 将来使わないであろう知識を詰め込むのは時間の無駄だし苦痛なだけだからやめよう
- 自分から進んで学習するように仕向けよう
- そのためには知識をどうやって社会の役に立たせるかを教えよう
つまり、指摘している問題点は「学習の無駄」ということ。将来使わない知識の詰め込み教育と、それによって間違った「知識偏重の優秀な」人材が生産されることの無駄を問題にしていると思う。実際自分も昔は学校の授業を受けてて「古文とか何の役に立つんだよ?」と思ってたw
この記事を読んで考えたことがいろいろとあるので、ちょっとまとめておく。
知識偏重ではこれからやってけない
そもそもなんで知識偏重がいけないのか?を考えてみる。
これからの社会では、今までのような単なる知識詰め込みの教育ではやっていけないだろうな、ということは確かに感じる。というのも、日本の産業構造が昔とは変わってきているから。
今までの日本は、アメリカとかよその国で発明・開発された製品を取り込んで(悪く言えばパクって)、それをより高品質かつ高性能なものに仕立て上げることで価値を向上させてお金を儲ける、というビジネスモデルだった。車とか家電とか半導体とか、たいていのメイドインジャパン製品はそうだったと思う。基本的に、新しいものを生み出すというより、すでにあるものを改良する、という考え方でやってきた。創造より改良。製品をどう作ればより高品質になるか、という、How to makeを追求したものづくりで勝負してきた、と言える。
でも最近は、中国、韓国をはじめとするアジア諸国の技術力が上がってきて、日本製品と同等の品質で製品を作ることができるようになってきた。しかも安い人件費で。こうなると日本製品の競争力が危うくなってくる。品質で同等かつ値段は安いという競合が出てきてしまったから。半導体はもう負けてしまってるし、家電もどんどん追いつかれてる。車も今後は分からない。
だから日本はいま、「どう作るか?」から「何を作るか?」への変化が求められている。How to makeじゃなくてWhat to make。これができないともうアジアの国々に対抗できない。
こういう状況では、新しいものを創造する能力を持った人材が必要になってくる。持ってる知識を応用して、今までにない製品とかサービスといった価値を創造する力が必要。単に知識を詰め込んだだけの人材では、あまり社会で役に立つことができないだろうな、と思う。それだと中国人、韓国人、インド人とかに勝てないんじゃなかろうか。ちなみにアメリカなんかはもともとWhat to makeなんじゃないかな、と思う。単純なDRAMみたいな半導体じゃなくて新しくプロセッサを作ったりとか、ものづくりをやるよりも新しいITサービスを考え出したりとか。
ようするに、今後必要なのは知識を詰め込んだだけの人材じゃなくて、創造力のある人材、ということ。
学習のフェーズ
じゃあ、どうやったら創造のできる人材を教育できるのか?を考えてみる。
まず、学習には次の3つのフェーズがあると思う。
- 暗記
- 理解
- 応用
ひとつめの「暗記」はただ覚えただけの状態。元記事で言う自己満足のレベル。ここまでだと元記事で言うとおり勉強するのが苦痛だ。学校の成績もある程度までしか上がらないと思う。
ふたつめの「理解」は、覚えた知識の背景にある本質とか原理とか、そういうのが分かるレベル。こう言うとちょっと大げさだけど、ようは覚えた公式の意味とか、歴史上の出来事の背景とか、そういうのまで分かってるレベル。ここまでくると多分そこそこ勉強するのが楽しくなってきて、そんなに苦痛じゃなくなる。学校の成績も一段上に行けるように思う。
みっつめの「応用」は理解した知識を使って、新しいものを創造できるレベル。元記事で言う知識の使い方が分かるようになる段階。ここはもう今の学校教育じゃあまり教えられない段階。自分も教えてもらった記憶がないw*1
創造力のある人材に求められるのはもちろん応用のレベル。
応用を身につけるためには暗記、理解のフェーズが必須
じゃあ、どうやったら応用のレベルまで行けるか? を考える。ここはちょっと元記事とは違う考え。
応用が出来るようになるには、その前の理解のレベルまで達してる事は必須だろう。また、理解のレベルに達するまでには暗記のレベルを超えてこないとダメ。ようするに順番にレベルアップするのであって、いきなり応用に達することはできないんじゃなかろうか。
というのも脳科学の分野の話では、知識と言うのはまず「記憶すること」があって、その次に「記憶したことがつながる」という段階があるらしい。まず「記憶」しないと始まらない。まあ、当たり前といえば当たり前だけど。記憶した段階では単なる知識で、それがつながって始めて役に立つようになる、ということと思う。
これはなんとなく直感でも分かるような話。たとえば方程式の解き方とか、はじめは単にルールを覚えてそれに従って数字を操作してるだけでも、そのうちだんだんやってることの意味が分かってくる。最初から意味わかってやってたわけじゃなかったりする。*2
つまり、苦痛だけれどもまずは暗記の段階を超えないとその先には行けない、ということ。元記事では応用の仕方を教えればそれで学習が楽しくなる、と言っているけれども、応用の仕方はその前の暗記と理解の段階を超えてないとたぶん教えられても分からないだろう。だから、はじめはどうしても知識を詰め込まないと仕方ないんじゃないかと思う。大人になってからの勉強だとすでに蓄積された知識が増えてるので頑張って暗記しなきゃいけない事も減ってくるだろうけど、子供のうちはいろいろ暗記するところからまず入らないといけないんじゃないかな、と思うのである。子供じゃなくても、始めて接する知識だったらまず暗記から入らないとダメかもしれない。
社会で応用するためには専門分野だけでいいのか?
それからもう一つ、将来必要ない知識の詰め込みはやめて、将来必要になる知識だけに集中しよう、というのもちょっと難しいと思う。
まず、その知識が将来役に立つかどうかは事前には分からないから、選別のしようがない。また、自分が必要と思った知識が将来ほんとに役に立つかどうかも分からない。早い段階で絞り込むとそれだけ深い知識にはなるが、そのぶんリスクも高い。まして子供の段階でそれを判断するのは無茶だと思う。
それに、こっちの方ががより重要なことだけど、社会で知識を応用するときに狭い分野の知識だけでやっていけるのか?ということが問題と思う。専門分野の中だけで応用するならいいかもしれないが、もっと広い社会で何かをしようと思ったらより多くの視点が必要なんじゃなかろうか。社会にはいろんな立場や考え方の人がいるわけで、その人たちのことを分かろうと思えば、自分もいろんな視点を持ってないとダメだろう。知識を応用してビジネスしようとするなら、より一層そういういろんな視点が必要になってくると思う。技術者が自分の視点だけで製品をつくったら、無駄にハイスペックでユーザーが欲しい製品とはかけ離れたものが出来上がった、というような状態になるのは防がないといけない。
いろんな視点を持とうと思えば、それだけいろんな知識を蓄積しておかないとダメだろう。なにか新しいものを創造しようとするなら、幅広い視点は必須だろうから、結局は知識の蓄積を怠ってはいけない、ということ。自分の興味のある分野だけでなく、もっといろんな分野の知識がいるんじゃないかと思う。
結局どうするのがいいのか
結局何が言いたいかというと、創造力のある人材には「知識の詰め込みが要らない」んじゃなくて、「詰め込んだ上にさらに応用することまで求められている」ということ。創造力のある人材を育てようと思ったら、まずは「知識の詰め込み」から入る必要があるんであって、そこをすっ飛ばしたら中途半端な人材になってしまうんじゃなかろうか、と思ったりするのである。
学習のためには、知識を詰め込み、っていうと言い方悪いけど、知識の蓄積をしたうえでそれをどう活かすのかを習得しないといけない。けど、知識の使い方は人から教えられるものなのか?という疑問もある。まず学校の先生はこれ知っているのかな?と。たいていの先生は「先生」の経験しかなかったりするだろうから、これを教えるのはあんまり得意じゃないんじゃないか。
あと、たぶんみんなその「知識の使い方」というか「知識の応用の仕方」でいかに価値のあるものを創造するかをめぐって社会で競争してるわけで、教えてもらえるような答えなんてないんじゃないかとも思う。参考になる話は教えてもらえても、結局は自分でいろいろやってみて身につけていくしかないものなのではないかな、と思っている。
結局子供には「勉強しなさい」って言うしかないのかもしれない…。むずかしい…。
と、いろいろ考えてきたけれども、やっぱり古文は学校でやらなくてもいいんじゃないかと個人的には思うw まあ、古文も面白いからいいけどね。
参考
How to meka から What to makeの話はこの本に出てくる。
悪くないテキスト
リーダとして活躍している/したい人に読んでほしい本
内容の濃い良書です
入門・サイドリーダとして
脳科学の話はこちらの本に出てた、ように思う。記憶が確かならば。ちがったらゴメン。
新潮社
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う〜ん、ジャンル違うじゃん!
おもしろい対談。
脳は30歳以降、質的に変化する。
これは痛い